「いばらぎけん」発言を許せなかった群馬県民の話

茨城(いばらき)県 思ったこと
茨城(いばらき)県

さすがGoogle日本語入力先生、優しい。

 

私がまだ大学生だった頃の話。

「茨城県」のことを「いばらけん」と発音する教授がいました。

当時の私は無駄に正義感が強かったのか、生まれも育ちも群馬県民であるにもかかわらず、茨城県民のためにもこの「いばらぎ」が許せませんでした。

(教授その人自身については講義をいくつも受講しゼミを検討していた程度には嫌いということはありませんでしたが。)

その教授のある講義の試験で、問題用紙の裏(だったような)に日頃の講義の感想について自由に記入する……みたいな設問というより項目がありました。

「これだ!」と思った私は、茨城県民の屈辱を晴らすべく茨城県は正確には「いばらきけん」であることを昔のコシヒカリのCMや県の公式サイトのURL上でも「ibaraki」表記である点など思いつく証拠を挙げて訴えました。

その後、別の講義で教授が「いばらきけん」と発音しているのを聞いて大満足。

茨城県民の代わりにやってやったぞ、と。

 

その後、新卒で入社した会社の仕事で茨城県に転居。

実際に茨城県の方々と話す中で「茨城県をいばらぎけんって言われるの、迷惑ですよね〜」と言ってみた所。

「別にあんまり気にしてないなぁ」

むしろ茨城の人がいばらぎって言ってるからじゃない?

という衝撃の言葉が。

 

「茨城県民の皆さんはこの読み間違いに怒り、苦しんでいるんだ! 間違っている発言は訂正しなくては!」

などというのは当事者面した単なる自分の思い込みに過ぎないことに気付かされました。

 

世の中(という名のTwitter)を見ていると、細かなことを気にして他人にその行いを改めるように働きかけている人の中には、当事者でもなんでもない人が少なくない割合で含まれているように感じることがあります。

「本人に代わって自分が!」という気持ちを否定するわけではありませんし、逆に本人が本当にそんな気持ちで、でも声を上げることができない・広く伝わらないのであれば、その行動はとても有意義なものだと思います。

でももし、別に本人はそこまで気にしていない、むしろ全く異なる気持ちだったとしたら……?

 

思えば、「いばらぎ」を許せずにいた頃の私は、「茨城県民のため」などではなく「自分が人の間違いを許せないから」ああだこうだと言っていただけに過ぎなかったのかもしれません。

それを認めると自分が単に器量の小さい人間にしか思えなくなるから、誰かのためという大義名分で偽装していただけだったのかもしれません。

 

なんとなく昔のことを思い出した今日このごろでした。

 

 

 

 

 

ただし萩原・荻原問題、テメーはダメだ。

 

萩原(はぎわら)と荻原(おぎわら)

2は「はぎわら」。「ぐーぐる」を「Apple」に変換されたいのか。

 

 

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